我が国における現代を取り巻く環境は、現代人にとって、猶予無き時代と言ってよい。
内閣府が毎年公表している『自殺対策白書』によれば年間の自殺者数が15年以上に渡り2万人から3万人を推移し、またその予備軍とも言えるうつ病を中心とする精神疾患罹患者数も現在320万人を超えている。我が国においては戦争や飢餓といった社会不安がないどころか、むしろ物質的にかつてないほどの豊かさを享受している時代において、これほど命がないがしろにされる社会は、歴史的世界的に見ても異常であるといえる。
原因として考えられるものは様々である。ほぼどの業種でもいえるが常態化している長時間労働による過労、新自由経済の台頭がもたらした経済格差社会及びワーキングプアと呼ばれる低賃金による困窮。また「勝ち組・負け組」といった流行語に代表されるような競争社会の激化により極端な個人主義が幅を利かせ、それに伴う他者尊重精神の著しい低下。学校や職場、あるいは地域社会における「いじめ」のエスカレートなどによるストレスなど、様々な要因が絡み合っている。そうした混沌とした日常において健全な精神を維持して生き抜くのは容易ではない。こうした社会に身をおきながら「こころの健康」を保ち続けている現代人は実はごく少数でないだろうか。
そうした現代人が、古来より日本に伝わっている仏教、中でも「瞑想」に目を向けるようになった事は自然の成り行きであろう。カバットジンにより創始された「第三世代の認知行動療法」と呼ばれる「マインドフルネスストレス低減法(MBSR)」にも、昨今急速に注目され、医学的エビデンスもあるところである。一方カバットジン自身がMBSRは実は仏教の瞑想法からヒントを得ていることをその著書の中で明かしている[i]。
曹洞禅、臨済禅、天台止観など数々の瞑想法があるが、瞑想は仏教において基本的かつもっとも重要な修行の一つであることは間違いない。中でも「阿字観瞑想」は異彩を放っていると言える。佐藤正伸の解説によれば「真言宗の即身成仏とは本不生際をみること 」とし、阿字観とは「本不生を阿字と蓮華とで具体的に示しそれを本尊として本不生の世界を体得する瞑想 」[ii]としていることは密教独特の瞑想を具現している証左とも言えよう。
そもそも仏教の目指すところは「悟り」であり、様々な瞑想も「悟り」を目指す宗教的行為に他ならない。成仏の経路は三劫成仏しかありえないとした往時の教学の中で、空海は『御請来目録』の中において「又夫顕教則談三大之遠刧密蔵則十六之大生。遅速勝劣猶如神通跛驢[iii]」。と述べ顕教との対弁を主に成仏の遅速という点から論じ、またそれに先立つ『與本國使請共歸啓』では「攘氛招祉之摩尼。脱凡入聖之墟徑也[iv]」とし、密教の特色は攘災招福と即身成仏であるとする。また仏教においては自利利他行が説かれ、さらには僧侶に対する「四重禁戒」では「一切の教えを相手の機根に応じて『惜しみなく』与える」こととされている[v]。であれば、僧俗問わず最終的な目的は「悟り」に置きながら、目の前の困難に方便として、阿字観を広め、応用することに何の問題があろうか。
[i] J・カバットジン『マインドフルネスストレス低減法』北大路書房、2007年 p.xi
[ii] 密教福祉研究会編『密教福祉Vol.1-世紀を超えて-』御法インターナショナル、2001 p.142
[iii] 『電子版弘法大師全集「御請来目録」』高野山大学密教文化研究所、2011年 p18
[iv] 『電子版弘法大師全集「遍照発揮性霊集」』高野山大学密教文化研究所、2011年 p86
[v] 山崎泰廣『真言密教阿字観瞑想入門』春秋社、2003年 p51