オンライン四度加行(しどけぎょう)?

先日の出来事です。これは現代の仏教を取り巻く大きな危機として、お話ししたく、ここに記すことに致します。

真言宗の僧侶となるためには「四度加行(しどけぎょう)」といわれる、修行をしなければなりません。

どの仏教宗派でも形こそ違え、様々な修行を経て僧侶になります。

どこぞの吉本芸人のように「得度」を受けただけで「和尚」を自ら名乗るなど勘違いも甚だしいと思いますし、さらには最近よく聞く言葉として「在家得度」「在家出家」という言葉もあります。
いったい何なんでしょう?「在家出家」とは?「家にいて家を出る」とは矛盾も甚だしい言葉で意味が分かりません。

当山においても希望される方は、面接しお話をお聞きした上で、修行に入っていただいていますし、萬行された方は、総本山善通寺にて「伝法灌頂」という儀式を受け、初めて一人前の僧侶となります。
なお善通寺派ではその後「教師検定」と呼ばれる、教学・読経・声明・梵字などの試験に合格し「僧階」と呼ばれるものが発行されて、住職になれる「本格的な一人前」となります。

さて、本題です。先日、お電話にて「四度加行」についてのご相談がありました。当山にて加行したいとおっしゃるのです。

当山での四度加行について説明させていただいたところ、

「ZOOMなどでオンラインでは出来ないのですか?」

という全く予測していなかった質問がありました。

当山の四度加行は、「下座行」と言われる山内の掃除をし、その後仏さまにお経をお唱えしたうえで、実際の「加行」を行って頂いています。

これまで萬行された方もそのようにして頂いていました。

なぜなら「一に下座行、二に勤行」といわれるように、仏教の修行において「四度加行」よりもなりよりも、お釈迦様の時代から修行の中で「下座行」が最も尊いからです。

言い換えれば、「下座行」なしに「四度加行」はありえません。

そのお問合せの方は言われました。

「作法を覚えるだけならオンラインで十分ではないですか?」

私はこう申し上げました。

「そもそもそうした発想をする方の入門はお断りです。」

実際に体を汚して行う下座行の大切さ、瓶から瓶に一滴遺さず移すように、師僧から弟子に教えを面授で教える(「写瓶無遺(しゃびょうむい)」)大切さを電話口でお伝えしましたが、

「時代はそういう時代ですよ。いずれ高野山などでもオンラインで修行ができるようになると思いますが、そちらでは古い考え方から離れないのですね」

と言われてしまいました。高野山に限らず伝統宗派がオンライン四度加行をする時代は永遠に来ないと思いますが。

申し上げますが、

オンラインで作法を覚えるだけなら、それは「カルチャーセンター」と同じです。

もう一度申し上げます。

オンラインで作法を覚えるだけなら、それは「カルチャーセンター」と同じです。

かつて、吉本新喜劇の「岡八郎」に

わしはなぁ、こう見えても空手習ってたんや。通信教育やけどな

というギャグがありましたが、全く同レベルといえます。つまりギャグです。

そうした「カルチャーセンター」で作法を覚えて、僧侶ごっこをするのが目的ならば、それはそれで「多様性の時代」ですから私も否定しません。

しかし「僧侶ごっこ」をしている方を私は「僧侶」として認めません。

以前、私と親交のある山路天酬師は「もはや猶予無き時代である」とその書籍に書いておられますが、この電話でのやり取りで現代の仏教を取り巻く危機を改めて感じました。

私は古い考え方から離れるつもりはありません。なぜならそういうものだからです。

ならぬものはならぬのです。