キリスト教徒が日常から旧約新約聖書に、またイスラム教徒が日常からクルアーンに触れるのとは全く違い、仏教徒が多い我が国において一生のうちで仏伝あるいは仏典に触れる一般の仏教徒は極少数である。そもそも我が国の仏教徒は仏教徒であるかどうかも曖昧であるとともに仏教徒であることを意識することも少なく、仏教に触れるのは「葬式仏教」と揶揄される言葉もあるように、「葬儀」あるいは「法事」といった場面に限られることが多く、他方イエス・キリストの生涯は知っていても仏陀のそれを知っている者は非常に少ない。
ただし例外として、ロングベストセラーコミックである、手塚治虫の『ブッダ』を読んだことのある者は、仏教徒に限らず多いかもしれない。
仏伝『スッタニパータ』やパーリ律蔵『マハーヴァッガ』に目を通すと、多くの神々あるいは悪魔が登場している。特に『サンユッタ・ニカーヤ』における「詩句をともなった集」においては、神とあるいは悪魔との仏陀の対話が数多く記されている。これらは聖書やクルアーンにも共通するかもしれないが、多くの場合教祖のその超人性を強調するものとして登場していると考えられるかもしれない。なぜなら、日常生活において我々が神や悪魔と直接対話したり、対峙するという常識では考えられない経験をすることがないからである。
前述の手塚治虫著の『ブッダ』においても「ブラフマン(=梵天)」といった神や「マーラ」といった悪魔が人物描写されて登場しているが、著者である手塚治虫も述べているように、あくまでも仏伝を基にした「創作」つまり「フィクション」である。
様々な仏伝には同様に仏陀が生まれたときから、「神」の祝福と、「魔」による妨害があったとされている。
まずは悪魔について考えてみたい。
「四門出遊」、「出家」、「苦行」時にも「魔」、つまり「苦悩」「迷い」があったことを窺い知ることが出来る。
仏伝『スッタニパータ』の最初に出てくる悪魔とはナムチという名であり、苦行中の仏陀が精励に努め、懸命に瞑想し、束縛から安穏を求めていたときに、哀れみの言葉を口にしつつ近づいて来る。
ナムチは、仏陀に「生きていたら福徳も作れるだろう。(中略)精励して何になる。精励への道は進みがたく、なしがたく、克服しがたいものだ[i]」とブッダの傍らに立った。ここでいう、「福徳を積む」とは、当時の生き様としての裕福な生き様を言っている。しかし、仏陀はそういう生き方の者を「放逸者の親族」と呼んでいる。そして、以下八つの軍隊になぞって、「欲望、不快、飢渇、割愛、沈鬱と睡眠、恐怖、疑惑、偽善と頑迷」という。そして、「放逸にならず、精励し、わたしの教えの実践者[ii]」になれば、安楽が手に入ると答えて、悪魔(=ナムチ)を撃退する。以上の一連の修業への妨害は、仏陀の教えの実践による功徳を表現してものといえるかもしれえない。
また、『サンユッタ・ニカーヤ』では、「蛇」のエピソードがある。すなわち、蛇の形をして悪魔がブッダを誘惑しようとするが、失敗したという話である。悪魔の名は、「マーラ」という。「悪魔・悪しき者は、尊師に、髪の毛がよだつような恐怖をおこさせようとして、大きな蛇王のすがたを現し出して、尊師に近づいた[iii]」。仏陀は自分の断固たる心境を、悪魔に語る。「たとい胸に向かって槍をなげつけるようなことがあっても、生存素因のうちにあるもののなす救護を、諸々のブッダもなさない[iv]」。その言葉を聞いた、悪魔・悪しき者は、その場で消え失せた。これは、立派な覚悟をもっている人は、いかなる誘惑にも揺るがすことができない、ということを表しているエピソードであるといえよう。
また、「愛執」と「不快」と「快楽」という悪魔の娘たちが登場している。そこでは、仏陀は、悪魔の娘・<愛執>に「愛しく快いすがたの軍勢に打ち勝って、目的の達成と心の安らぎ、楽しいさとりを、わたしは独りで思っている」。悪魔の娘・<不快>に「多くの瞑想をするならば、外界の欲望の想いがその人をとりこにすることがない」。そして悪魔の娘・<快楽>には、「執着なきこの人は、多くの人々を、[死王の束縛から]断ち、死王の彼岸に導くであろう[v]」とある。以上は、仏陀の覚悟を現すエピソードである。仏陀の教化活動の源の側面ととらえることが出来るかもしれない。
これらの悪魔の登場とは、一般的に煩悩を象徴するものとして解釈されがちである。仏陀は自ら「私はすべてを知る者」と称し、また「なすべきことはなし終えた」と繰り返し宣言している。初期の仏伝に登場する悪魔とは、出家の存在を嫌い、邪魔したり干渉したりする世俗主義者、特に保守主義に立つバラモンたちであると考える方が妥当であろう。
さて次には仏伝に登場する神について考えてみよう。
神が登場するエピソードとして最も知られているのは、仏陀成道直後の梵天の勧請である。後の仏伝には神話的要素が多数溢れているが、このエピソードについては仏陀その人が弟子たちに語り伝えたものであるから、非常に真実味を帯びたエピソードとなっているがゆえに、現代の我々がそれについて真実であると考えるだけの説得力を持っている。
ここに登場する梵天(ブラフマー)とはヴェーダの宗教における最高神、あるいはインド哲学における、宇宙の根本原理であるブラフマンを神格化したものであり、宇宙創造神として、神々の頂点に位する神[vi]である。
『サンユッタ・ニカーヤ』の記述によれば、「わたしのさとったこの真理は、深遠で、見がたく、難解であり(中略)だからわたしが理法(教え)を説いたとしても、もしも他の人々がわたしのいうことを理解してくれなければ、わたしには疲労が残るだけだ。私には憂慮があるだけだ[vii]」とある。
そして、仏陀が思案している間に、心は説法に向かわずに、無気力へと傾いたその時梵天が登場する。梵天は仏陀に対し、悟りの内容の説法を請願するのである。『大品』では、三度梵天が請願し、「幸あるお方は、梵天の請願を知り、衆生への憐れみによって、目覚めた人の目をもって世間を観察された[viii]」とある。その直後、仏陀は、梵天に詩で答えている。「耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。[おのが]信仰を捨てよ。梵天よ、人々を害するであろうとか思って、わたくしはいみじくも絶妙なる真理を人々には説かなかったのだ[ix]」と、説法の決意を告げる。ここに、「初転法輪」に向けての、仏陀の決心を読み解くことができよう。
通常我々が神の声を聞くというのは非常に不思議かつ強烈な体験であり、ほぼ日常では前述のとおりありえない体験である。もしも神の声を聞くとしても、それはあるいは一種ひらめきのような一言のみであったり、個人の内なる声ともいえるものであろう。梵天と仏陀の言葉のやりとりは非常に長く、内なる声、または天啓ともいうべきひらめきとは到底考えられない。
仏陀成道後に仏伝に現れる「神」は梵天が最初ではない。タプッサとバリッカの2人の商人が麦菓子と蜜団子を仏陀に供養する際にも、その2人に対し「親族・血縁である神[x]」が命じたというエピソードが伝えられている。
親族に神がいるということ自体が現代人の通常の感覚では非常に疑問を感じるのであるが、仏陀の説法はよく知られているように「対機説法」、つまり説く相手の能力・資質・状況に応じて説法の方法を変化させるという方法である。
つまりここでいう「神」とは仏陀の方便ではなかったのではないだろうか。同様に「悪魔」も方便あるいは暗喩として使用されていると考えることができるかもしれない。あるいは古代インドにける「善なる人」は「神」という呼称で呼ばれていたのではないかという考え方が出来る可能性がある。宮元啓一の解釈によれば、先の梵天勧請のエピソードについて「梵天と呼ばれる人物は、かねてより出家修行者に強い関心と深い親和感を抱いていた、(中略)今まで見た賢者とは格段に違う清々しく見えるゴータマ・ブッダを見、(中略)このお方は真理を証得されたが、それを説くことを止めようとしていると察し、かくして懇請を重ねて説法を促した、(中略)善き世俗人だったと考えるのが一番正しいと言える」かもしれないとしている。
また『サンユッタ・ニカーヤ』第1章「詩句をともなった集」においては神のみでなく「神の子」「上の娘」という名称も登場している。仏教においては、キリスト教的あるいはユダヤ教的な「世界創造者としての唯一神は、これを認めない」[xi]。ここに登場する「神」の語源はdevaであり、本来「輝く」という意味の語源に由来する。称号としては、人間よりもすぐれた存在に付せられていた[xii]。このことは前述の宮元啓一の解釈を裏付けるものであるかもしれないだろう。
また羽矢辰夫は、次のような解釈をする。「この逸話(梵天灌頂※筆者注)は、ゴータマ・ブッダの心理的葛藤を神話的に表現したものであるというように解釈され」また、「当時は新興宗教であった仏教としてみれば、最高神の名前を借りて、みずからの立場を権威づけたいという気持ちがはたらいていた」としている。神の登場によって「成道」→「逡巡」→「説得」→「翻意」→「説法」というシナリオの成立がなされたと言えよう。
以上から神と悪魔の役割・性格について考察を行った。
初期仏教における仏伝は、それらをすべて仏陀の目覚めのため、つまり成道のための、荘厳な出来事として、その教えの内容ではなく、尊さに対する脚色を大事にしたのではないかと考えるが妥当性ではないであろうか。
[i] 『仏陀の伝記-その資料と解釈-』 p.30
[ii] 『 同 』 p.32
[iii] 『ブッダ 悪魔との対話』 p.20
[iv] 『 同 』 p.21
[v] 『 同 』 p.60-62
[vi] 『仏教かくはじまりき』 p.39
[vii] 『ブッダ 悪魔との対話』 p.84
[viii] 『仏教かくはじまりき』 p.41
[ix] 『ブッダ 悪魔との対話』 p.87
[x] 『仏教かくはじまりき』 p.29
[xi] 『ブッダ 神々との対話』 p.342
[xii] 『 同 』 p.343
【参考文献】
谷川泰教『ブッダの伝記-その資料と解釈-』高野山大学、2008年
宮元啓一『仏教かく始まりき パーリ仏典『大品』を読む』春秋社、2005年
羽矢辰夫『ゴータマ・ブッダ』春秋社、1998年
中村 元『原始仏典』(ちくま学芸文庫)筑摩書房、2011年
中村 元『ブッダ 神々と対話-サンユッタ・ニカーヤⅠ』(岩波文庫)岩波書店、1986年
中村 元『ブッダ 悪魔と対話-サンユッタ・ニカーヤⅡ』(岩波文庫)岩波書店、1986年
水野弘元『釈尊の生涯』春秋社、1985年
渡辺照宏『新釈尊伝』(ちくま学芸文庫)筑摩書房、2005年
並川孝儀『ゴータマ・ブッダ考』大蔵出版、2005年