インドの諸宗教文化に見られる密教の諸要因

 「人は何故生きるのか、世界はどのように構成されているのか」この命題は人類普遍のテーマであるに違いない。人類が誕生し文明が生まれてからも人々はこのテーマについて向き合い、答えを引き出せないものには畏怖し、様々な形で宗教が生まれたといえる。インドにおいても、このテーマはヴェーダの宗教から仏教、密教へと脈々と引き継がれてきたといえる。

 「脈々と」という言葉を用いたが、特に密教に引き継がれている所作がインドの拝礼作法を理解すると飲み込みやすいからであり、またそれがその証左といえる。一般的に密教の所作は非常に複雑で多岐にわたる。しかし様々な作法を理解しようと思えば、古代から現代まで伝わるインドの作法を理解すれば分かりやすいと言える。五体投地などの作法などがまさにインドで「お客様」を「お迎えする」作法なのだ。

 ここでは古代インドの哲学から密教の誕生まで、インドの諸宗教文化に見られる密教的諸要因について、論じてみたい。

 釈尊以前のインドでは、原ヨーロッパ系のアールヤ人が紀元前13世紀頃にインド地域にヴェーダの宗教を携えて侵入したことから、この宗教が根付いた。この教義こそがカーストに代表されるように社会規範であり行動規範であったことは間違い無い。

 この時代に生まれた、教義のみに限らずカーストをはじめとする数々の社会制度が現代インドで多く信仰されているヒンドゥー教においても生き続けて、今だ現役であることは特筆すべきである。

 もちろん釈尊が生まれた時代から修行時代までインドの社会構造及び社会規範を支えてきたのはヴェーダの宗教であった。特徴的な事としては、階級制度が挙げられるだろう。それらは、バラモン→クシャトリア→バイシャ→シュードラの大きく4階級に分けられアールヤ人が原住民に対する自らの優位性を示すために、揺ぎ無い階級制度を「宗教制度」として根付かせたものと思われる。

 最上位に位置する婆羅門は、この地に根付いた宗教を司り教義また祭祀全般を取り仕切った。

 釈尊は「因果」の法則を発見し、その宗教では上記の一切の階級制度を否定するとともに、世俗的な呪術、密法、呪文を唱えることを禁じた[i]。つまり現在密教で行われている護摩や真言・陀羅尼は原始仏教においては否定された。しかし一方で、護身用の呪句として容認されたパリッタ、さらには「法華経」や「般若経」などの大乗経典中において説かれる陀羅尼も、密教の原型的要素と考えることが出来る。[ii]

 前述のとおりパリッタのように独りで山林に修行に出る場合など、インドでは慣習的に用いられていた毒蛇除けなどの呪文=真言・陀羅尼が原始仏教の中でも出家者の間ですら用いられていた。

 釈尊の入寂後、仏教はさまざまな変遷を辿るが一つの大きなターニングポイントは、紀元前1世紀頃から興隆した大乗仏教運動である。その後大乗仏教と原始仏教の名残を残す上座部仏教の二つの大きな流れとなり、前者は北方へと進みチベット・中国・朝鮮半島・日本へと伝播し、後者は東南アジア諸国に伝播した。

 インドでは大乗仏教の研究が盛んとなり、さまざまな龍猛のような優れた仏教学者などが現れ、釈尊の教えのみならず悟りの根本についての研究が行われ、釈尊は宇宙の根本を悟った仏陀であるが、根本は法身物つまり根本は大日如来という宇宙の根本こそが真理であるという密教の原型が出来上がった。そうしたものが徐々にロジカルになり、密教が完成された。インド密教史の時代区分では、6世紀までと、7世紀、そして8世紀以降、それぞれの密教を、前・中・後の三期に分ける。[iii]空海が日本に伝えた真言密教の所依とする経典は中期密教とされるものである。

 こうした密教は、本来的に仏道完成のための実践方法論的反省から生まれた新たな仏教なのである。

 密教の儀礼や思想を垣間見ると、いかなる宗教よりもインド的であることが良く分かる。

 最も密教的といえるものは、火と水の儀礼だろう。それらは「護摩」と「灌頂」である。

 まず火の儀礼「護摩」であるが、日本に伝来した他宗派の仏教においても密教化した宗派(例えば禅宗である臨済宗)などで行われている。本来は、古代インドのヴェーダの壮大な婆羅門の儀礼に遡る事が出来、諸々の尊格に火神アグニを通じて供物を捧げる儀式である。アグニ神はインド定住アールヤ人の火の信仰まで遡る事が出来る。護摩とは火に対する、人間の原初的な表象が、宗教の淵源にあることを見事に描いている。

 次に水の儀礼「灌頂」である。その起源も護摩と同じくヴェーダの時代に遡る。灌頂とは、本来帝王が即位の際に四大海の海水を集め、それを頭上に灌ぐ儀式であった。「華厳経」の「十地品」では、法王即位の義にならって、仏となる直前の第十地の菩薩の最終段階において、この灌頂という観念が説かれている。また灌頂の儀礼は水の観念と密接に関連する。キリスト教においても洗礼という儀式が行われる。この起源は、ヨルダン川において洗礼者ヨハネがイエスに水を注いだことを、キリスト教の教義に取り入れたと考えられており、現在同教における洗礼はイニシエーション、つまり「入会式」の意味が重要な要素となっている。一方このレポートで主軸となる密教の灌頂においてもその傾向は顕著である。真言宗における結縁灌頂・授明灌頂・伝法灌頂など、それぞれがある段階に進むためのイニシエーションであることは間違いが無い。

 次に「いのちの認識」について考えてみたい。インドの思想の特色として「輪廻」「業」という観念がある。密教に限らずそうした観念は日本に伝来した仏教各宗派に多かれ少なかれ説かれている。生命が生まれそして死に、荼毘の炎や煙が天空に昇る。また雨となって地上に注がれ、水の循環は生命の生と死の繰り返しの様として捉えられる。宇宙に普く偏在する火という観念が、天体の運行、神々の世界、自然現象、人間の営みなどというそれぞれの運行・行為を祭式とみなす祭式至上主義の観念連合の視点から結び合わされると、いずれの段階においても火に供物の水が注がれる祭式の解釈が可能となる。こうして火・水という観念の連合から「輪廻」という世界観が整えられたのである。 

 また密教においてマントラは重要なファクターの一つとなる。ヴェーダの宗教以来、その祭文・呪文というような「聖なる言葉」は伝統的にインド特有の言語観を形成してきた。これはインドにおいてもマントラが使用されていると同時に、上記「聖なる言葉」として中国から日本へ、音を伝え真言として現代においても、祈りの言葉として、あるいは天地を呼び覚ます言葉として使用されている。またこの「真言」という言葉は空海が日本で開いた「真言宗」の語源であることは自明である。空海の著作「聲字實相義」には以下のとおり記されている。

(前略)龍樹名秘密語。此秘密語則名真言也。譯者取五中一種翻耳。
此真言詮何物。能呼諸法實相不謬不妄。故名真言。[iv](後略)

 つまり「真を語っている」「実を語っている」「ありのままに語っている」「誤りなく語っている」「嘘を語らない」という、語られるあらゆる言葉の根源には、いのちの共生している絶対的な真理があり、その真理の姿は、大海にすべてのものが映し出されているような最高の境地によって得られることから、その境地に至ることによって生まれるのである[v]と続く。

 また音に出す言語だけでなく文字も聖なる言葉の象徴として密教の顕著な特色となっている。今日我が国の宗教儀礼の多くに見られる梵字としてそれらは身近に知られる。

 また、火水および言葉・文字の儀礼のみならず、仏の世界、ひいては宇宙の存在を絵画化した曼荼羅も密教独自であると言えよう。空海が伝えた曼荼羅は「胎蔵曼荼羅」と「金剛界曼荼羅」として有名であるが、これらは大日如来=ヴァイローチャナ=宇宙の根源を中心として描かれたもので、前述の通り仏の世界あるいは悟りの段階を表したものを超越して、宇宙の構成を絵画化した宗教上まれに見る科学的ともいえる「宗教絵画」とも言えるのではなかろうか。

 以上、密教的特色を様々な角度から考察してみた。

 他宗派における法、または釈尊の時代の法、仏教以外の宗教とも大きく相違する部分が多々あることが理解できる。密教における様々な儀礼を観察するにつけ、表面的には超神秘的な宗教のように受け取られがちであるが、それぞれに意味を持ちお互いが相互に関わりあいを持っているのである。全てがそろって密教を完成させているのである。

 周知の通り密教は仏教が発展していく段階の最終段階において現れた宗教である。釈尊によって産み出された初期仏教が、密教へと発展し、仏教の諸尊に限らずヴェーダの宗教の儀礼や神々を取り入れ、多様な文化や思想を包括した懐の広い宗教と言ってよい。中国を経て日本で花開く「真言密教」も他聞に漏れずこの伝統を引き継いでいる。真言密教において、日本の習俗全てを統合化して展開してきた。神仏習合、山岳信仰、大師信仰、巡礼などあらゆる日本的宗教習俗を統合化し、実に多様な展開を遂げたのである。そうした本来日本人が持ち合わせていたといえる協調的精神は、真言密教は多くの人々に支持され現代までもその法灯を絶やすことなく、文化の一つとして守り続けている証左と言えよう。


[i] 「密教入門」 勝又俊教 22p
[ii] 「密教 悟りとほとけへの道」 頼富本宏 32p
[iii] 「密教」 松長有慶 6p
[iv] 「電子版 弘法大師全集」 高野山大学密教文化研究所 聲字實相義 40p
[v] 「空海の哲学『声字実相義』」 北尾克三郎 62p~64p


<参考文献>
「密教」 松長有慶 1991年 岩波新書
「密教入門」 勝又俊教 1991年 春秋社
「電子版 弘法大師全集」 高野山大学密教文化研究所 2011年 小林写真工業
「空海コレクション2」 宮坂宥勝 監修 2004年 ちくま学芸文庫
「密教 悟りとほとけへの道」 頼富本宏 1988年 講談社現代新書
「空海の哲学『声字実相義』」 北尾克三郎 2007年 プロスパー企画