宇宙・大日如来と自己・人間の同一について

 唯一絶対神を掲げる、キリスト教やユダヤ教、あるいはイスラム教などのとは違い、仏教圏あるいは東洋思想においては全く異なるものを包括的に一括りとして捉え、理解することが多い。ただし前述のような西洋文化圏等における一神教に基づく唯物思想もキリスト教などが地域の宗教界を席巻し、人々の生活様式から思想までに大きな影響を与えた結果におけるものであり、さらに歴史を遡りギリシャ神話やローマ神話といった神々の物語の中において、宇宙・天体・星にその神秘性と人間存在を重ね合わせた発想は、現在のキリスト教圏やイスラム教圏などのみならず、古来よりどの文化圏にも、また思想や信仰にもみられるものであるといえるだろう。

 仏教が生まれ、発展を遂げるインド文化のおいても、古代ヒンズー文化の中に、根強く「人間の身体が宇宙そのものである」という考えがあった。紀元前6世紀以前のウパニシャドのなかに、ブラフマンという宇宙の根源と、個人に内在する統一原理であるアートマンとが、同一視され、一体ととらえる世界観が、仏教以前からあったことは確認することができる。

 また、大乗仏教でも、マクロの世界とミクロの世界との同一性、あるいはその対応関係について、いろいろな説がとなえられ、「煩悩即菩提」あるいは、「俗諦即真諦」、また「法」と「法性」。「如来蔵」もまた、同様と言えるだろう。

 そうした二元的なものを一元的に捉えることは、密教を取り入れ日本文化の一つに昇華させた日本では特にその日本人の古来より持つ包括力が大きかったと言えるかもしれない。我が国においては、特に「八百万の神」と言われるように、神は「幸福をもたらす神」から「不幸をもたらす神」あるいは「祟神」まですべてが「神」という分類にされることらも東洋においても特に東洋的あるいは全てを包みこむ懐の深さをもった民族であるということが出来るかもしれない。早速蛇足となるが、幕末の剣豪であり政治家・思想家でもあった、山岡鉄舟は「剣禅一如」という言葉を用い、剣(殺人の手段)と仏道修行における坐禅(悟りへあるいは不殺生戒に通じる手段)という一見相反するものを「一如」という言葉で巧みに同一化させている。こうした例からも日本人にとって、一見全く性質の違うものですら視線の角度を変えればひとつであるという思想的背景を古来より持ち合わせていたのではないかと考えるのは早計であろうか。

 さて道筋から外れたので、本題に戻したい。

 初期仏教においては人格神を認めていない。あくまでも釈尊の教えに忠実に従い、自らが修行を怠ることなく行い、そして阿羅漢という地位に至ることが最上の喜びとされていた。一つの例を挙げると初期仏教の時代において、そもそも仏像は無かった。むしろ描かれるのは釈尊の教えを象徴化した「法輪」であった。

大乗仏教の時代になると、四方仏・十方仏が想定され、それらの仏に礼拝がなされるようになる。また、ジャータカにも見られるように、釈尊以前にも悟りを開いた聖者(過去仏)がおり、人々を救済するという信仰もあらわれる。また、菩薩の慈悲の働きが、神話的な色彩を鮮明にして物語られる。4世紀ころには、ヒンズー教の隆盛に、仏教経典にも、さまざまな神が現れて、大乗仏教の中では、超越的な性格の仏や、生活の中の神格が出てくるようになった。「山川草木悉有仏生」という言葉は有名であるが、その言葉のようにあらゆる者が本来悟りを開くことができる、つまりブッダになる性質を備えているという教えが、六波羅蜜を説き、日常に実践することを説くようになる。こうした仏教の宗教改革ともいえる思想の発展は大乗仏教の大きな特色であると言う事ができよう。

 そして、仏教の最も発展した思想ともいえる密教においては、「即身成仏」という瞑想を主体とした実践が、大きな比重を占めるようになるのである。

  わが国における密教の大成者である、空海はその著『即身成仏義』で、人間存在の中に絶対を見つける原理を説いた。それは、まさにマクロコスモス(宇宙・大日如来)とミクロコスモス(自己・人間)の一体化を理論的に裏付けるものであるといえよう。「本尊」と「行者」という、相対する二つの存在が、本質としては一である、二でありながら一になりうるということを、「六大説」をよって説き明かしている。

 空海によれば、地、水、火、風、空、識の六大を、宇宙の六種の象徴と見る。もともと五大は、『大日経』にある。それは五種の字、五種の形、五種の色をもち、さらに行者の体の五か所と対応する。そこに、空海が識大としての行者を加えたのである。

 さて彼が著した『即身成仏義』についてであるが、多くの経論には三劫成仏(無数の長い時間を経て成仏する=悟りが開ける)を説いているが、密教の経論では即身成仏を説いているとし、二経一論八箇の証文(『金剛頂教』四文、『大日経』二文、『菩提心論』二文)をあげ[i]、以下のように述べている。

六大無礙常瑜伽  體
四種曼荼羅不離  相
三密加持速疾顕  用
重重帝網名即身  無礙
法然具足薩般若
心数心王過刹塵
各具五智無際智
圓鏡力故實覺智  成仏[ii]

  マクロコスモスとミクロコスモスを考える上で最も重要な文章は上記第1行目に既に現れている。

 頼富本宏の訳によれば

「現象・実在の両世界の存在要素である六つの粗大なるもの[六大]は、さえぎるものなく、永遠に融合し合っている[iii]」。つまり、以上を解釈すれば、六大とは、物理的・生理的に把握されるものの本性であるのみならず、真実の世界における実体あるいは法界体性ででもある、という事になるであろう。また「六大無我について、勝又俊勝は「(これには)二つの意味が考えられます。第一に六大は五大と識大であり、それは心即色、色即心、あるいは智即境、境即智、あるいは智即理、理即智の構造をもつから、六大が相互に無障無礙で相応(瑜伽)しているという意味があります。第二には六大法界体性所成の身たる四種法身・三種世間・十界の一切諸法は各々の自体が六大所生であって、わが身も他の身もすべて仏身と相互に渉入し相応して無礙であるという意味があります。そしてこの点から凡聖不二・衆生即仏の原理が成り立つという意味が含まれているのです[iv]

と説明している。

 六大は法界を体とするものよりなった身、仏身。つまり、マクロコスモスである。とともに、行者の身体(ミクロコスモス)でもある。ともに、同じ六大からなるのであると考えられよう。

 本来大乗仏教では、煩悩と菩提、身と心、色と心、真諦と俗諦、一と多、理と事など二元的に相対立する概念を挙げて、本質は一であることを説く。これを、「一如」、「不二」という。つまりは、自我意識を否定し、「無我」を説く。対立する概念をなくせば、自分も他人も本来は一体であると捉える。そこに、「慈悲」の本質もあると言える。

 さらに、密教は瑜伽行唯識派系の思想の影響をうけ、「瑜伽」にその大きな意味を持たせている。「瑜伽」とは、本来ヨーガという言葉である。現在フィットネスクラブなどでヨーガあるいはヨガと呼ばれ、エクササイズの一つとして認知され盛んに行われているが、本来これは心身の統一・一致を意味し、心と身・自己と外界、精神と物質などの不統一・不調和・乖離に悩んできた人間が、座禅などの精神統一・心身一如の修行法によって、ついに「安心立命」の境地に至ることを言っている。

 空海が繰り返し主張するのは、ミクロとマクロの世界の本質的な一体化を、その「瑜伽」の行を通じて直観することによってこそ、「即身成仏」が可能であるということである。

 五輪塔に梵字で書かれている「ア」「バ」「ラ」「カ」「キャ」の文字を我々はあるいは田舎道の路傍に、あるいは高野山の奥の院に続く墓石に目にすることができる。それらは「地」「水」「火」「風」「空」を意味しており、宇宙を構成するこうした五大の思想そのものはインド密教における重要な思想となっていた。しかし、この五大に「識」を加えた六大思想はインド密教経典の中には見出せない[v]。恵果から相承した空海が自身の密教思想をより理論化するために、構成されたのである。

 このように天地万物あらゆる物の中に、生命を読みとる東洋的な思考を、マクロとミクロの一体化の世界観の中で理論化していった空海の論法は、論理的な思考に乏しいといわれる日本の宗教界の中では、きわめてユニークな発想といってよいのではないだろうか[vi]

 我々が生きる現代において、また現代に限らずとも様々な対立がある。個人・社会・民族・国家、あるいはあってはならないことにそれが宗教である場合もある。そうした大小の違いはあっても、我々は常に何らかの対立問題を抱え、現実問題として今この時でも紛争が起こり、人々がいがみ合い殺し合っている現実がある。

 自か他か、主と客。あるいは智と理、あるいは一と多の関係を、空海は『吽字』の中で巧みな例えを挙げている。

雨足多しと雖も 並びに是れ一水なり
燈光一に非ざれども 冥然として同体なり[vii]

 この言葉の前では、上記に記した一切の対立する概念は根底から崩れ去るだろう。

 マクロコスモスとミクロコスモスは本来同一であるという思想は、これまでの考察により密教の、あるいは空海の思想として論拠を明らかにした。世界がこの普遍の思想を共有することで、対立はなくなり、密教の目指す「密厳国土」ひいては「世界平和」の構築も可能ではないだろうか。


[i] 『密教入門』 p191
[ii] 『電子版 弘法大師全集』 p507
[iii] 『空海コレクション2』 p28
[iv] 『密教入門』 p193
[v] 『  同  』 p192
[vi] 『密教』 p83
[vii] 『空海コレクション2』 270


【参考文献】

松長有慶『密教』(岩波新書)岩波書店、1989年
勝又俊教『密教入門』春秋社、1991年
頼富本宏『密教 悟りとほとけへの道』(講談社現代新書)講談社、1989年
金岡秀友『密教の哲学』(講談社学術文庫)講談社、1989年
宮坂宥勝『空海コレクション2』(ちくま学芸文庫)筑摩書房、2004年
高野山大学密教文化研究所『電子版弘法大師全集』 小林写真工業株式会社、2011年
松長有慶他『即身-密教パラダイム』河出書房新社、1988年