密教思想は現代においても様々な分野で応用可能であり、有効であることを論証することが出来ることは容易に想像がつく。例えば生活の中で活かすことも可能であろうし、特に福祉の分野、あるいは精神医学の分野への応用も可能であろう。それらすべて網羅し論述することは膨大な論述が必要であるので、特に私自身の体験を中心として考えてみたい。
“Simple is best”という言葉が聞かれるようになって久しい。特にバブル崩壊後ライフスタイルにおいて無駄なものを省き、質素な生活様式が取り入れられて見直されていることはある意味仏教的と思える。しかし一方で特に女性を中心として「断捨離」という言葉が持て囃され、敢えてシンプルにするために「捨てる」ことが美徳とされていることには、私個人は大きな違和感を覚える。質素な生活を維持するために、捨てることを前提にプレゼントを収受する事は果たして無駄のない生活なのかという疑問である。むしろ大量消費にほかならないのではないだろうかと思われる。密教に限らず、仏教全般において「山川草木悉有仏性」という言葉がよく用いられる。この言葉をあえて解説しないが、質素な生活を求めながらも、対極する使い捨て生活が行われていることに疑問を感じるのである。
さて特に密教において他の仏教宗派と違い、寺院が荘厳になされ、また儀礼においても護摩、真言、印契など素人目からすれば「何にどのように何故必要なのか」と疑問を抱く法具、あるいは作法が多い。
特に私の経験の二点に絞り、検証してみたい。
一つ目は「阿字観」である。阿字観は「瑜伽」=「ヨガ」であるが、いつも行の前には道場内に香を炊き、法楽を行ってから本尊である軸の前に座って行を行う。実際に座るのは小一時間であるが、終了後身体は不思議とポカポカとし、日頃のストレスを忘れたように心がリセットされた状態を感じる。その感じは、まるでテニスなど自分の好きなスポーツをした後のような爽快感と似通っていると言って良いかもしれない。
二つ目は「護摩」である。ここにおいても道場は清められ、荘厳され、般若心経や真言が唱えられ、さらに護摩の炎が神秘性を高めている。
以上の空間に入ることだけで既に心身に変化が現れることが自分自身でも理解ができる。
何故二点のような儀礼が行われるのか。私見ではあるがそれらには「劇場的」効果があるからではないか考える。劇場=シアターという装置の中に入ることにより私たちは既に「ハレ」の空間に入っているではないだろうか。通常平凡な日常の中に生きている。「ケ」である。密教儀礼の中には「ハレ」がある。学部時代の教養科目で「ケ・ハレ」について講義を受けたことがある。「ケ」と「ハレ」は対比の関係にあるが、「ケ」のなかに「ハレ」があるゆえに人はリセットができ、心身の健康を保つことができるのである。
密教における最大の特色の一つは「攘災招福」である。空海は「與本國使請共歸啓」に「攘氛招祉之摩尼。脱凡入聖之墟徑也[i]」と記載しており、「攘災招福」と「即時成仏[ii]」が密教の特色である。空海はそれらを根底に置いて教義を確立させたと考えられるため、密教の特色に現実重視が特徴づけられるのは尤もである。
現代に生きる我々が密教思想、あるいは密教儀礼に触れることは、いわば「ハレ」の空間に入ることと同様であり、心身の健康を保つ上で非常に有効であろう。
[i] 密教文化研究所編『弘法大師全集 第3輯』同研究所、1967年 p86
[ii] 頼富本宏『密教 悟りとほとけへの道』(講談社現代新書)講談社、1988年 p84