現代人は、さまざまな問題を抱えている。最も大きな問題は心の問題だろう。自殺者は1998年以降3万人を下回らず、人口10万人あたりの自殺率は25.4人と世界第一位である[i]。人は一番大切なものを失われることになって初めてやっと大切さがわかる。バブル期には物質豊かさを精神豊かさと同等と考え、経済力こそが幸福と考えられ、本来の心の豊かさに我々は目を向けようとしなかった。バブル崩壊、そして社会変革というパラダイムシフトが生じ、それまで所有していた物を失った人々が急増した。そうした直面に対峙して人は心を病む。いまほど「いのち」の大切さが叫ばれている時代は無い。
近年「癒し」と言う言葉をよく耳にするようになった。癒すと言う言葉はhealと英語で言うがこれはhealthと同じ語源である。現在使われている「癒し」とは「誰かに癒されてほしい」と言う意味であり、「癒す」と言う意味ではほとんど使用されていない[ii]。
ほとんどの人は、心が疲弊しており誰かに「癒され」たいのである。一旦「癒し」を「救い」と言う言葉に置き換えて考えてみたい。
人々はどのようにすれば癒されるのか、あるいは救われるのか。つまり得られないもの、失ったものが手に入った時に人々は救われる。願いが満たされたときに人は救われるのである。これは物質的なことではなく、精神世界を対象としている。
他力本願、自力本願などとよく言われる。他力本願は仏にひたすら帰依し如来の慈悲にすがることで願いを叶えよう、自力本願は我功徳力により願いを叶えようという方法論である。
では密教においてはどのような方法論が取られているのだろうか。
真言密教の修法を行うときには、「三力の偈」が唱えられる。
以我功徳力 ①
如来加持力 ②
及以法界力 ③
普供養而住 ④
である。①は自分の努力、菩提心である。②は仏から手が差し伸べられる、信じる心、信頼する心である。③はこの世のすべての人や動植物、つまり「みんなの力」であり「感謝の心」である。そして④のいう「安心して暮らせます」ということになる。
現代人が悩んだとき、救いを求めるとき、一般的にどのような行動に出るか。まずは「依存」であろう。「癒し」が商業化した現代において、我々は「依存」の誘惑に囲まれている[iii]。甘い言葉にたやすく騙され、ネガティブスパイラルに嵌まり込む。
「三力の偈」には現代人の思考から忘れ去られてしまったものがある。すべてが有縁であり一人では生きていないと言うことである。この考え方は密教が誇るべき思考である。
密教独自の思想・文化として「曼荼羅」が重要な役割を果たしている。では曼荼羅の何を現代が必要としているのであろうか。
まず曼荼羅と精神の本質について考えなければならない。心理学者・精神分析医であるカール・ユングは、彼の患者達が、夢や幻想などに円や四角をテーマとする象徴的図形を見る、あらゆる人が心の内部より自発的にそうした「図形」が生じてくることに気づき、密教の文献に触れるに及んでこの円・四角を主題とする図形が宗教的に大きな意義を持つものとして存在し「マンダラ」と呼ばれていることを知った。それらの人々がマンダラを本来より知っていたとは考えられないので、普遍的無意識にマンダラが存在するという発見をしたのである[iv]。つまり無意識のうちの我々は心の中に曼荼羅を持っているということになる。
結論を先取りして論じれば、曼荼羅の「理念」とは「同じいのちの多様な生かし方」と言える。曼荼羅を観察すれば理解できることだが、諸尊のみならずあらゆるものが描かれていることからも、そのことはその証左である。
死をもって「いのち」が終わるわけではなく、遺伝子が引き継がれることが「いのち」の継続と考えることも早計であろう。バブル崩壊前後に「誰がケインズを殺したか」という書籍がベストセラーになったことがあったが、このことはバブル崩壊当時まではケインズ経済学は生きた経済学であり、歴史上の人物であるジョン・メイナード・ケインズが「生きていた」のである。また例えば空海の思想が現代まで生き続けているということは、「弘法大師空海は生きている」と言うことに他ならない。
我々いのち有るものにとって最も大切なものとは何かを考える場合、その「いのち」に他ならないことに気づく。「いのち」を大切にするには何も気取る必要は無い。贅沢をする必要など無いし、真に強い心を持ち信念をもちそれを貫くだけのことなのである。経団連会長、臨調会長を務めた土光敏夫氏は次のように述べている。
「要は生活を質素に無駄なくやればいいわけで、豪邸に住んで派手な生活をするような人は、あまり信用できない」[v]
蛇足となったが、本来の意味でいのちに積極的に関与してきたのは、宗教なのである。いのちだけではない。精神世界への関与や、教育に到るまで、また現在脚光を浴びている「スピリチュアルケア」においても、ヨーロッパでは神父やシスターによって、また日本では僧侶や尼僧によって、たましいのケアを含む全人的ケアが行われていた[vi]。いわば人々の生活にしっかりと入り込み、またそれが人々の精神的支柱となっていたことは特筆すべき点である。
かつて公開され話題となった「おくりびと」という映画が有るが、ここでは宗教色というより宗教者あるいは僧侶自体の登場が無く、このことは「いのち」≒「生死」を自覚するべき場所が既に宗教の中にはないと暗に訴えているようでもある。もちろん宗教者側も危機感を抱いており、松長有慶師は新聞社のインタビューで次のように述べている。
「僧侶は死者の成仏を祈り、大切な人の死を悲しむ人々に寄り添い、その苦しみを取り除くのが本来の役割です。多くの人が病院で亡くなる現代社会では、生命は医師の手に委ねられています。亡くなれば葬儀業者の担当です。僧侶が葬儀を通じて死の問題に介在することが難しくなってきている。」
「高野山の真言密教は苦しむ人の中に飛び込んで、一緒に涙を流して、汗を流すことの大切さを説いています。実は真言宗では現実を重視してきたため、死後の世界のことを説くのは不得意でした。でも、もう避けてはいられません。理屈だけを言うのではなく、死の問題についても、まさに『おくりびと』の主人公のように、一緒に考え、真心のこもった行動を起こすことが大切なのです[vii]。」
人は必ず死を迎える。しかし現実に死を直前にするまで自分が死ぬとは思わない。よっていのちの自覚への希薄となる。
また利便性を追い求め繁栄と快適さに貢献した20世紀の技術進歩は、一方で深刻な環境破壊をもたらし、いのちの生態環境の死を近づけている。本来、技術の進歩がなくとも、いのちは幸福な生を営んできた。地球上に多様に展開した文化の諸相がそれの証左である。いのちが全的にいきいきとして生きる倫理の在りようが積極的に示される必要があろう。動的な創造性、自覚的な生の創造的なあり方が標榜されるべきである。
ここで密教の持つ全体的な思考法について考えてみたい。周知のとおり近代思想は自我を中心として、自と他を明確に区別するところから出発している。それは科学技術あるいは文明の発達の基盤となった。だが一方で、自と他、物と心、人間と自然などの間にあった不二の部分を切断し、各々が独立の存在とみなす思考法が常識化することとなった。
しかし、本来他社から完全に切り離して自己は存在し得ないし、物質と精神をまったく別の存在としてみなすことは困難であり、西洋思想、特にキリスト教的思想のように、人間は動植物や自然界を支配し、隷属させる権利を持つものではなく、それらの間には密接な関連性があり補完しあう共存の関係であると想定せざるを得ない。
密教的思考からすれば、自と他、個と全体、物と心など一般的に対立的に考えられる存在は、もとより一体である。全体的に把握することによって、真実の姿が顕れるとする。宇宙的な視座から全体的、相互関連的に世界をみつ立場への支店の転換を、密教は要求しているのである[viii]。
孤独死、環境破壊、地球温暖化などの問題が明らかになって久しいが、こうした密教的視座により、現代社会ひいては現代人が抱える心の問題の解決の糸口となると言わねばならない。
さて曼荼羅の世界は多種多様なものが一見まとまりがないように見えながら、相互に関係している。
我々はこと西洋文化的な影響を受け前述したように、自と他といった思考法に陥りがちであり、むしろそれを美徳としてきた感さえある。しかし振り返れば、他が無ければ自は存在しえるのだろうか。答えは否であり、逆もまた然りである。
密教は宇宙の真理を説いている。また世界に存在するすべての事象が宇宙の一部であり、自己もまた宇宙の一部である。
このように考えるとき、疎外感が蔓延している現代人にとって密教は心の処方箋となり、個人の心の問題だけでなく、全体の問題をも解決させるヒントを与えてくれるだろう。
現代思想の欠陥はひいては現代人のこころの欠陥に繋がっている。東洋の伝統的な文化、その特色を最も顕著に示す密教思想がこれからの社会や精神世界に少なからず影響を与えるであろうことは、十分予測されるといって良い。
[i] 「『うつ』からの社会復帰ガイド」 pⅴ
[ii] 「こころの法話 金剛峯寺 松長有慶」 p36
[iii] 「うつ病なんて怖くない!」 p213
[iv] 「ユング心理学入門」 p232
[v] 「清貧と復興 土光敏夫100の言葉」 p80
[vi] 「スピリチュアルケアへのガイド」 p2
[vii] 「朝日新聞 2009年4月4日夕刊」
[viii] 「密教」 p230
【参考文献】
「密教」 松長有慶 岩波新書 1991年
「密教経典」 宮坂宥勝 講談社学術文庫 2011年
「こころの法話 金剛峯寺 松長有慶」 蓑輪顕量監修 朝日新聞出版 2011年
「密教入門」 勝又俊勝 春秋社 1991年
「三力偈(大日経七供養儀式品・胎蔵四部儀軌など)」 田中宣照 2011年
「スピリチュアルケアへのガイド」 窪寺俊之・井上ウィマラ 青海社 2009年
「ユング心理学入門」 河合隼雄 培風館 1967年
「個性化とマンダラ」 C.G.ユング みすず書房 1991年
「『うつ』からの社会復帰ガイド」 うつ・気分障害協会協会 岩波アクティブ新書 2004年
「うつ病なんて怖くない!」 伊藤正敏 幻冬舎ルネッサンス 2006年
「清貧と復興 土光敏夫100の言葉」 出町譲 文藝春秋 2011年
「誰がケインズを殺したか」 W.カール・ビブン 日本経済新聞社 1990年