『般若心経秘鍵』を読む(1)

 『般若波羅蜜多心経』、一般には『般若心経』といわれる経典は、最もよく知られた経典である。僧侶から作家まで多くの著者が解説に挑み、近年では生命科学者で難病の柳澤桂子による『生きて死ぬ智慧―心訳―般若心経』がベストセラーとなり、メディア等で頻繁に取り上げられたことも記憶に新しい。また「超訳」と冠名のつく書籍も多く出版され、あるいは雑誌に掲載されており、日本人の心を掴み取っている一つの経典であることは間違いないであろう。日本人だけではなく仏教圏においてこれほどよく知られている経典も珍しいのではないだろうか。筆者は中国西安、韓国ソウル等に旅行に行った経験があるが、「般若心経」と書かれたCDがレコード店に置かれており買って帰ったこともある。

 さてその『般若心経』であるが、手に取る図書の多くの解説によると、大乗仏教の主要なる経典の一つである『大般若経』のエッセンスを抜き出したものとの解釈でほぼ一致していると言って良い。平安時代に『般若心経秘鍵』を記した空海は、現代においても全く新しい解釈を行っている。空海はこの『般若心経』に対して独自の密教的な解釈を展開し、通常の注釈書とは一線を画すために、あえて「秘密の鍵」つまり『秘鍵』として著したと考えられる。

 まず般若経典の成立過程を見てみると、原始経典から次第に増広して般若経典が成立して、やがては『大般若経』六百巻という集大成にまでになる。『大般若経』が一般的に論述の繰り返しが多く冗漫なのに対して、『般若心経』はきわめて簡潔で、端的に教えを示している。そして終りの部分において、

般若波羅蜜多
是大神呪
是大明呪
是無上呪
是無等等呪

と説き、その読誦の功徳を強調している。この一節は『般若心経』は経典であるということに加えて、これは「陀羅尼」でもあるということを伺わせる。こうして考察してみると、般若経典そのものは初期大乗仏教の経典とはいいながら、『般若心経』は密教的な性格を始めから有していたものと空海は考えたと言える。事実この経典の解釈史上、現代においてさえも、空海以外にこの密教的な側面に着眼するものはいなかった。『般若心経』の成立の背景、性格また密教化の過程までも考慮して、そこにたぶんに密教的性格を有していることに着目して『般若心経』を密教的に解釈したのは、空海が唯一の注釈者であったと言えるであろう。

 それでは空海の『般若心経秘鍵』が一般の『般若心経』とどこが異なって、その密教的な解釈はどのような特色を持っているのかを考えてみたい。

 まず原文の冒頭部分には次のように記載されている。

夫佛法遥心中即近。真如非外「棄(原文では旧字)」身何求。迷悟在我。即發心即到。明暗非他。即信修忽證。哀哉哀哉長眠子。苦哉痛哉狂醉人。痛狂笑不醉酷睡嘲覺者。不曾訪醫王之藥。何時見大日之光。到若翳障軽重覺悟機根不同性欲即異[i]

 この冒頭文はは、『般若心経秘鍵』を説くに当たって、その趣旨を「大綱序」として提示する目的をもち、そもそも仏法はどこに存在するものであるか、それに至りつくには、どのような方法があるかといった点を中心に説いている[ii]。『般若心経秘鍵』は般若心経についての解説という形式を取りながら、空海が自身の哲学を開陳している作品である。前述のとおり般若心経は大般若経という大部な経典のエッセンスを説くものという理解が一般に流布している。現在でもそうであるが、本文を読むと空海がこの書物を書いた当時もそうだったように受け取れよう。こういう一般の理解の仕方について、般若の心を説いた経典だという解釈を空海は示し異議を唱えているのである。つまり、大般若経の簡略版ではなくて、独立した教典だという認識を示しているといえよう。

 もともと顕教の経典と思われていた般若心経に密教思想が含まれているのだと空海は説いている。般若心経というポピュラーな経典にすら密教が含まれているとすると、顕教も密教もそう遠く隔たってはいないのではないか、というよりむしろ密教の中に顕教は含まれている。空海はそう言いたいのではないか。即身成仏という発想も、悟りを得ること、つまり密教を理解することは現世のうちに充分可能だという考えである。

 空海の発想の特徴として、思想を凝縮した言葉に収めていく運動と、その凝縮した言葉をほどいて説明するという運動との往復が挙げられる。実に伸縮自在といった感がある。般若心経というかなり短い経典に密教思想を読み取るのはほどいていく運動であるし、その解説の途上、ある程度の長さの議論をしたらそれをスローガンのような簡潔な言葉にまとめるというのは凝縮の運動である。密教の修行でよく知られている、また私も近くの寺院にて実習会に参加している阿字観があるが、これもこのような思考の往復運動ではないだろうか。

 さて空海は般若心経本文を五分科している。まずは原文を拾っておこう。

 此教總有五分。第一人法總通分。觀自在至度一切区厄是。第二分別諸乗分。色不異空至無所得故是。第三行人得益分。菩提薩埵至三藐三菩提是也。第四總歸持明分。故知般若至真實不虚是也。第五秘蔵真言分。「ギャティギャティ(カタカナは筆者)」至「ソワカ(カタカナは筆者)是也。[iii]

 ここには建・絶・相・二・一という五つの思想が述べられている。空海はこのように本文を五分割し、教文それぞれの中に含まれる深い意味を探し出し、各々が声聞、縁覚、法相、三論、天台、華厳それぞれの教えに該当することを述べ、それらがすべて最後の陀羅尼に帰るという独自の見解を披瀝する総説にあたる。[iv]

それは「第二文」の分別諸乗分で説かれ要約すると次のようになるだろう。

「建」とは、建立如来の悟りの境地を指す。
「絶」とは、無戯論如来の悟りの境地を指す。
「相」とは、弥勒菩薩の悟りの境地を指す。
「二」とは、声聞・縁覚の悟りの境地を指す。
「一」とは、聖観自在菩薩の悟りの境地を指す。

ここにおいて、空海は尊格あるいは仏格がここで登場させているのである。

 以上までで、『般若心経秘鍵』の最も主要と思われる部分について、原文を用いながら考察をい、以下において、「空海の『般若心経』観」についてまとめていきたい。大きく三つの特徴が挙げられる。

 第一として、空海は大乗仏教の経典である『般若心経』を密教眼でもって理解している点である。繰り返しとなるがこの点は非常に重要と言えるであろう。つまり『般若心経』は、『大般若経』のエッセンスであるとの、多くの解説書は立場をとっているのに対し、空海は「『大般若波羅蜜多心経といっぱ(いうは)、すなわちこれ大般若菩薩の大真言三摩地法門なり』[v]」と説き、『般若心経』は大般若菩薩の悟りの内容を解き明かした密教経典であるとみなしている点が挙げられる。

 第二として、『般若心経』は大乗仏教の「空」の思想を説くだけの経典ではなく、仏教のあらゆる教えを含んだ経典であるとするところである。このあらゆる教えというものをどのように捉えるかであるが、「文は一紙に欠けて、行は十四なり。謂っつべし、簡にして要なり、約かにして深し。五の般若は一句に含(原文は口偏に兼※筆者)んで飽かず、七宗の行果に歠んで足らず[vi]」とある。この五蔵とは、経、律、論の三蔵に般若蔵と陀羅尼蔵を加えた五つで、七宗とは南都六宗の律、倶舎、成実、法相、三論、華厳に天台を加えたものであるという見方と、もう一つ、建(華厳)、絶(三論)、相(法相)、二(声聞と縁覚の二乗)、一(天台)に秘蔵真言を加えた見方がある。ともあれ空海は、『般若心経』は諸宗と真言を含めたあらゆる仏教の思想と行果が凝縮された経典と考えていた、といっても差し支えないであろう。

 第三であるが、『般若心経』を「大般若菩薩のお心を説いた教と理解すべきである。般若菩薩には、他の諸損も同様であるが、身陀羅尼・心陀羅尼があり、この教の真言は般若菩薩の心陀羅尼を説いた、すばらしく意義深い心咒(真言)なのである。般若心を説いた教とは、こうした意味なのである[vii]」と説いている点である。繰り返しとなるが一般には『般若経』の教えのエッセンスを説く経典と考えられている。空海当時もきっとそうであったであろう。空海は密教的な観点から、その真髄は最後の『心真言』にあるとした。古来、大乗経典のなかでも護国三部経といわれた『法華経』、『般若経』、『金光明経』などは書写、読誦、聴聞すれば大きな功徳が得られるといわれ除災の経文として広く信仰されており、また『般若心経』は、玄奘三蔵がインドへの求法の旅の途中、災難に遇ったときに、『般若心経』を読誦して災難を逃れたという説話もある。空海がこのように験力ある『般若心経』を呪経と解釈し、それに注釈を加えたと考えるのは密教の阿闍梨としては当然ではなかったか。

 以上のように空海は『般若心経』を『般若心経秘鍵』という著作でもって、この経典の密教的側面を読み解き、また密教的観点からアプローチして独特の解釈を行ったと考えられ、新たな『般若心経』解釈及び見解を提示したといえるであろう。

 千数百年を経て現代においてもこの書作が色あせず前衛的進歩的な解釈であることは間違いない。


[i] 『般若心経秘鍵(定本弘法大師全集第3巻抜刷)』 p.3
[ii] 『空海 般若心経の秘密を読み解く』 p.91
[iii] 『般若心経秘鍵(定本弘法大師全集第3巻抜刷)』 p.7
[iv] 『空海 般若心経の秘密を読み解く』 p.137
[v] 『弘法大師空海を読む』 p.207
[vi] 『  同  』  p.207
[vii] 『  同  』 p.217


【参考文献】
松長有慶『空海 般若心経の秘密を読み解く(増補版)』春秋社 2006年
高野山大学『般若心経秘鍵(定本弘法大師全集第3巻抜刷)』高野山大学密教文化研究所『電子版 弘法大師全集』小林写真工業 2011年
加藤精一『弘法大師空海を読む』大法輪館 2002年
加藤精一『般若心経秘鍵』(角川ソフィア文庫)角川書店 2011年
宮坂宥勝『空海コレクション2』(ちくま学芸文庫)筑摩書房 2004年
松長有慶『密教』(岩波新書)岩波書店 1991年