般若心経を人生に生かす

 めぐり変わりの激しい現代において、社会人としてまた家庭人として生きる人間は、日々の仕事や生活に忙殺され、物事をじっくりと考える暇がない。また多数の現代人が同時に何らかの組織人であろうが、組織の常識に縛られ、物事を多面的に見ることが出来ない環境にあり、組織を離れた現場において現れる事象をまでも一元的な見方しかできなくなってしまっている。

 「般若心経」の解釈についても同様である。「般若心経」は一般的に「大般若経」のエッセンスを取り出し、わずか276文字に凝縮したものという解釈が現代でも行われている。また、近年「心の時代」「癒しの時代」と言われ、仏教が脚光を浴び、最も身近に触れることができる「般若心経」に対し、前述の解釈・注釈書も多く、結果として先の解釈が常識と考えている人々が多いのは事実である。そのため、「般若心経は『大般若経』のエッセンスを取り出したものである」という「常識」という理解に凝り固まることとなり、それはつまり我々が日常的に一元的な見方になる「この事象の解釈はこれ、解決方法はこれ」という罠にはまっているとも言える。

 空海は『般若心経秘鍵』の冒頭部分には次のように述べている。

 夫佛法遥心中即近。真如非外棄身何求。

 迷悟在我。即發心即到。明暗非他。即信修忽證。哀哉哀哉長眠子。苦哉痛哉狂醉人。痛狂笑不醉酷睡嘲覺者。不曾訪醫王之藥。何時見大日之光。到若翳障軽重覺悟機根不同性欲即異[i]

 この冒頭文は、その趣旨を「大綱序」として提示する目的をもち、そもそも仏法はどこに存在するものであるか、それに至りつくには、どのような方法があるかといった点を中心に説いている[ii]のだが、一方で当該著作は般若心経についての解説という形式を取りながら、空海が自身の哲学を開陳している作品である。何度も述べるが般若心経は大般若経のエッセンスを説くものという理解が一般に流布している。この解釈に対し、般若の心を説いた経典だという解釈を空海は示し異議を唱えているのである。つまり、大般若経の簡略版ではなくて、独立した教典だという認識を示しているといえよう。

 冒頭のこの言葉には大きく人が心惹かれよう。

 「般若心経」という当時においてもポピュラーであり既に解釈され尽くしたと考えられていた経典に対し空海は視線を変え、非常に斬新な解釈を試みている。一般的に斬新な解釈を試みようとすれば、理論の破綻を招く場合が多く見られるが、『般若心経秘鍵』においては理路整然と展開され、意義を挟む余地が見られない部分も驚愕に値する。

 また空海は仏教すべての宗派に対し価値を認めている。「分別諸乗分」を説く菩薩は、建立如来や無戯論如来など密教の菩薩名で登場しており、顕教も見る人が見れば密教であることを現している。これは、顕教も、すべて密教に包容され、決して対立するものではないことを示し著されている。

 我々は権威者の意見や常識に因われ、疑問を持つことなく日々の生活を過ごしている。しかし『般若心経秘鍵』から『般若心経を』を改めて目にするとき、あらゆる目前に現れる事象を常識にとらわれず多面的に捉えるべき、ということを教えられる。

 現代社会は加えて非常に激動の時代である。社会情勢や国際情勢は刻々と変化を遂げている。善悪をも一元的に決めがちである。そのために何かと対立を生じやすい。

 多面的な見方を行うこと。他者を理解することの重要性。これらは空海が指し示した普遍的な人類の方向性である。また我々が日々の生活において実践することで平和へと繋がるのである。


[i] 『般若心経秘鍵(定本弘法大師全集第3巻抜刷)』 p.3
[ii] 『空海 般若心経の秘密を読み解く』 p.91