哀れなるかな、長眠の子

“Fair is foul, Foul is fair”
「きれいは汚い、汚いはきれい」
『マクベス』シェークスピア著、福田恒存翻訳

久しぶりに小説を読みました。小説といっても正確には戯曲です。

映画としてジャスティン・カーゼル監督、マイケル・フェスベンダー主演として公開されたことも記憶に新しいところです。
マクベスは「シェイクスピア四大悲劇」と言われる作品の中の一つになります。

2015年版の映画は以前にも見ていたので、1971年のロマン・ポランスキー監督の作品をDVDで探し昨夜視聴しました。

文字として読んでも映画として見ても、心理描写の迫力には圧倒されます。

主人公マクベスは自らの野望のため主君を殺し、そして徐々に暴君と転落していくのですが、終始その自ら犯した罪への罪悪感に苛まれ、精神をすり減らしていきます。

実際にこのような暴君が存在すれば、民としてたまったもんでは無いのですが、私には物語の中のマクベスは決して悪人には思えないのです。

私自身の話になりますが、自分自身が嘘をつく事は許すことができません。これは決して私自身が高潔な人物であると言うことではなく、いやしくも仏に仕える身であるから、と言うわけでもなく、単に私が本当の「小心者」であるからです。正確には「ウソをつくことができません」です。

なぜならば嘘をつけばいずれバレます。バレないために、嘘を隠すためにまた嘘をつかなければなりません。またその嘘を隠すためにさらに嘘をつかなければなりません。そう考えるだけで、とても恐ろしく嘘がつけないのです。「嘘も方便」と言いますが、方便としての嘘も私にはひょっとしたら無理です。

本来高潔な人物であったマクベスの最初の罪は、妻にそそのかされて、主君であるダンカン王を暗殺する事から始まります。そして自らの罪をさらに隠すため、自らの地位を維持するために、親友であるバンクォーを暗殺し、さらに家臣や裏切り者の家族を殺し、罪を重ねていきます。そして罪を重ねるごとに、マクベスは精神をすり減らしていくのです。そして最後には破滅が待ち構えています。

現代の社会の中で、罪を犯しても罪の意識すら感じない人が増えているのではないかと思います。話すことが嘘だらけで何が本当かわからない政治家や、自分の職務命令のために部下が自殺しても平気である高級官僚であるとか、あるいは犯罪を犯す場面を撮影し、アクセスを稼ごうとするユーチューバーと呼ばれる人々。社会が徐々におかしくなっているのではないかと思います。

彼らはおそらく、罪を犯すことに対する恐れや罪を犯してしまった後の後悔と言う感情が欠如しているのではないでしょうか。そうであるならば、彼らは彼らでとてもかわいそうな人たちです。

哀れなるかな、哀れなるかな、長眠の子、苦しいかな、痛ましいかな、酔狂の人。痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲(あざわら)う。かって医王の薬を訪らわずんば、いずれのときにか大日の光を見ん。

弘法大師『般若心経秘鍵』より

高校時代、「名誉欲のために主君を殺し自らが王となり、そして暴君となって最後には殺される」と言うあらすじだけを聞いて、

「なんでこれが悲劇なんだよ」

と思っていましたが、今読み返せば、マクベスの破滅へと向かっていく心のさまはに悲劇の中の悲劇です。またエピローグにおいて、彼自身は死ぬことによって救われたと読み取ることもできるかもしれません。