斧定九郎

「あんた、それまるで定九郎やで!!」
私が小学生時代、髪を梳かずに学校に行ったりしますと、帰ってからよく祖母からこのようにしかられたものです。

そもそも「定九郎」なるものは一体なんだろうかと当時は不思議に思っていました。

この人物は、歌舞伎の「忠臣蔵」に出てくる人物で、山賊です。さらには登場するのにいきなり早野勘平(実在人物では「萱野三平」)にイノシシと間違われて鉄砲で撃たれて死んでしまうと言う、いわば「端役」にすぎないのですが、江戸時代の歌舞伎役者、中村仲蔵がその役を務めたときに、当時では考えられないような奇抜なスタイルを確立し現代まで伝わっているという、端役ながら人気の役どころとなっています。

私の父の世代までは、ぼさぼさの髪の毛のことを普通に「まるで定九郎のような」と言う表現をしていたそうです。


人は通常においては、おしゃれをしたいものですし、TPOに見合った身なりもしたいと考えるものです。しかし一方で必ずしも見栄えの良い人が立派な人とも限らないのも事実です。

とんちで有名な一休宗純が、ある時にボロボロの身なりである商家に托鉢に訪れたところ、追い返されましたが、翌日立派な身なりで同じ商家に托鉢に行ったところ大変もてなされた、と言う話は有名です。一休宗純は、このことを「この商人は一休宗純という人物に布施をしたのではなく私の衣に布施をしたのだ」と言っています。
この言葉は真実の言葉だと思います。

しかし一方において、やはり身なりは大切であり、例えば結婚式に呼ばれた女性が白のドレスを着ていくと言う事はマナーに反しますし、お葬式にジーンズで出席する、と言うことも常識外のことです。

昨年(令和元年)の「赤穂義士祭にて」

「忠臣蔵」の話でこのブログを始めましたので、忠臣蔵つながりで申しますと、殿中松の廊下において刃傷事件をおこした浅野内匠頭は、吉良上野介からわざと間違った当日の身なりを教えられていた、と言う筋書きにもなっています。

例えば、仮に私がとても徳のある高僧だとして、あるお葬式に導師を務める際に、「外見よりも中身だ」という信念のもと、ミリタリールックで葬儀会場に現れたとしたら、どうでしょうか?反対に私が親族側であれば、絶対に気分を害します。


「心さえこもっていればどのような格好をしても、どのようなことをしても良い」と言う考え方はやはり誤っているのだと思います。

「ボロは着てても心は錦」といっても、大切な場所に、わざわざボロの着物を着ていくという事は、私はその人の神経を疑います。


荘厳清浄句是菩薩位
(身を飾ることの清浄という境地、それはすなわち菩薩の境地である。)『理趣経』十七清浄句の一つ