
知らず知らずのうちに12月になりました。ご存知のように12月は「師走」と言いますが、この場合の「師」とは僧侶を表す言葉で、中世以前は年末のお参りをして僧侶が走り回っていたので、12月には「師走」と言う言葉が当てられたと言う説があります。
今年は、ほぼ新型コロナウィルスに始まり新型コロナウイルスが継続したまま暮れようとしています。
歴史をひもときますと、大きな社会的混乱の後には、戦争であるとか内戦であるとか、きな臭い出来事が起きているように思います。
先日、須磨寺の副住職の小池先生と映画監督の池谷薫さんが、12月11日と12日に、
「コロナと戦争~不寛容の時代にどう心の平和を保かつのか~」
と言うテーマで対談をさるというポスターを拝見しました。
「不寛容の時代」とは「社会分断の時代」と同義語のように思います。私が大学時代や、まだ30代の頃、それほど社会の分断について考えたことがありませんでしたし、むしろ「一億総中流」などと言われ、「みんな同じ」という風潮があったように思います。
しかし現在社会を見ていますと、国内での左右のイデオロギー、また富裕層と貧困層の分断など様々だ国内での分断が見られます。特にわずが10年の間社に社会が大きく変質してしまったように思います。
例えば、ある政治家はある集団を指し「この人たちが社会問題の根源だ」などと敵意をあおっているように思います。一定の集団を攻撃し、国民の敵意を向けさせることは、社会や国家の統治の最も安易な統治方法だと言われています。なぜならば人々の目は統治者の思惑や社会の方向ではなくその攻撃される側に向くからです。

ところで、昨日私は、P.F.ドラッカーの「ネクスト・ソサエティ」を読み直しました。この書籍は2002年の発行、つまりもう約20年前のドラッカー最晩年の著書となるのですが、ドラッカーの社会に対する鋭い観察力に感嘆を禁じえませんでした。タイトル通り、きたるべき次の社会(当時において)をドラッカーが予言するような文脈で描かれています。
その中で「社会の分断」についても描かれています。ドラッカーはすでに社会の分断が始まっていることを指摘しています。そして社会・コミュニティの重要さ、文明の重要さが必要となる時代が来るであろうと描かれています。このことは「全体主義」の時代を予見したものではなく、分断された社会において、その次にきたるべき時代はお互いが支え合う時代でなければならないとしているのです。
まさに現代社会に当てはまることではないでしょうか。
「悪貨は良貨を駆逐する」と言う言葉がありますが、国民がネット上に溢れるデマに流され、嘘や陰謀論を信じるのではなく、良識に基づく常識的な判断が行える「賢さ」を持つ必要がこの時代には求められてるのではないでしょうか。
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