恐怖考

「恐れは逃げると倍になるが、立ち向かえば半分になる。」
ウィンストン・チャーチル

今日はお不動様の縁日。日中に急用ができましたので、事前のお知らせしたとおり先ほど護摩供を終え、こうしてブログを書いています。
山寺ですので、真っ暗な中参道を上がるのもまた本堂で一人行をすることも怖くないといえば噓になります。

怖いといえば落語でも「まんじゅう怖い」という噺がありますが、私たちは常にいろいろなものに恐れを抱くながら生きています。

かつて、北海道の森林トレッキングに参加したことがあります。そのトレッキングのガイドさんが、「夜に森の中でキャンプをしている時、1番怖い事は何でしょうか?」と言う質問をし、ある参加者の女性が

「お化けが出ること」

と答えて、その場は爆笑になったことがありました。

本当に怖いものというのは一体何なのか?いきなりそう聞かれるととなかなか思いつかないものですが、例えば「死ぬこと」であったり、今であれば「新型コロナウィルスに感染すること」なども挙げられるかもしれません。

冒頭のチャーチルの言葉も、なんとなくわからない。なぜなら「何が怖いのか」が分からないからに他ならないからです。

真の恐怖というものは人の人生において一つのテーマです。

映画においてもベトナム戦争の狂気を描いた『地獄の黙示録』の中で、主人公の一人であるカーツ大佐が

「恐怖とそれに怯える心を友とせよ。さもないとこの二つは恐ろしい敵となる。真に恐ろしい敵だ」

と、もう一人の主人公であるウィラード大尉に話すシーンがありました。

さて、先のトレッキングガイドの「一番怖いこと」の答えは、

「人と会うこと」

でした。一人で山の中でキャンプを張っている。そこに動物が現れることは予想できることですが、人と会うことは確かに予想外の恐怖です。

ただ本当に怖いものは、人そのものではなく「人の心」かもしれません。

他人の心もそうですが、自分自身の心も怖いものです。

自分自身を裏切るのも自分自身の心であったり、他人を傷つけてしまう根底には人の心の中にあるエゴであったり怒りであったりします。

先の『地獄の黙示録』においても、最後カーツ大佐は、

「恐怖だ、恐怖だ」

と言いながら死んでゆくのですが、それはなにも戦争の恐怖ではなく、その奥底にある戦争を起こし人を殺しあう人間の心に対する恐怖、また狂気に馴染んでしまった自分自身の心を表したものかもしれません。

人の心はえてして、善悪の判断より損得勘定に走りやすいものです。

損得勘定から憎しみも生まれ、そして怒りへ、争いへと発展したりします。自身の心を常に見つめ、正しくあろうとする努力を払うことが、恐怖の克服につながるのではないかと思います。