相互合掌の心

「コミュニケーションにおいて最も大切なことは、
 語られていないことを聞くことである。」
ピーター・ドラッカー

先日、ニュースでアメリカにおいてアジア人差別やアジア人に対する暴力が急激な増加傾向にあると報道されていました。

そもそも差別は根強い問題ですが、「BLACK LIVES MATTER」運動ピークの際に、裕福な白人男性をご主人に持つ日本人女性が

「なんでもかんでも『BLACK LIVES MATTER』ってバカみたい」
「黒人は差別されて当たり前」

と言っているという話を間接的に聞き、

「次は自分が差別の対象となるかもしれないのに、よくもそのようなことを・・・。」

と絶句したことを思う出すとともに、全米オープンテニスで、大坂なおみ選手が、黒人差別から殺害された犠牲者の名前をマスクに書いてテニスコートに入場することについて、賛辞とともに、「スポーツ選手は差別問題や政治に口を出さずにスポーツに専念しろ」といった非難の声も上がったことを思い出しました。

コロナ禍が原因とは思いませんが、日本だけでなく世界で人種間のみならず、思想的背景を起因として社会が分断され始めてから久しく感じます。

つい先日、

『三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実』

をDVDで鑑賞しました。

三島由紀夫は天才作家でありながら右翼の急先鋒、かたや東大全共闘はラディカルな左翼組織。真逆のイデオロギーの対立といえます。

その討論の記録映像がメインなのですが、非常にお互いが紳士的であり、「対決」は理路整然としており、感情を排した、奇跡的な中立地帯のように感じました。

「その根底には、お互いの『反米愛国』があるから歩み寄れるのだ」

という論評もありましたが、そればかりではなく、お互いがお互いに対してリスペクトしているからこそ、この「対決」は成立しているのであると感じました。

思想的背景を起因とした対立は、今に始まったことではなく、大昔からあることです。

例えば幕末から維新までの間、政敵に対し血で血の応酬がなされていたことも歴史が現しているところです。

現代の社会の分断は、SNSなどのツールを利用して、徹底的に自らの対立意見に対しては封じ込めるといった、殺人はないにせよ社会的抹殺を目的とするような過激がものとなっていることを私は危惧します。

三島由紀夫は、さすが天才作家といえるほど「言葉」「文字」を非常に大切にしました。魂の込められた言葉には力があります。それは間違いがありません。しかし、私たちは常日頃からどうしても言葉足らずになることもあります。その言葉足らずの上げ足を取るのではなく、言葉として表現されていない、つまり「語られていないことを聞く」という相手に対するリスペクトを常に持つ必要があるのではないかと思います。

分断から融合へ、不寛容から寛容へ。戦争から平和へ。

「相互合掌」の心をいつも持ち続けたいものです。

東日本大震災から10年

哀しい哉 哀しい哉 哀れが中の哀れなり     
悲しい哉 悲しい哉 悲しみが中の悲しみなり     
哀しい哉 哀しい哉 復哀しい哉     
悲しい哉 悲しい哉 重ねて悲しい哉 
弘法大師『亡弟子智泉が為の達嚫(たっしん)の文』

今日であの東日本大震災から10年を迎えました。

あの日、私は確か午後からプライベートの仕事で出かけ、その後自宅に帰ってテレビをつけたところ地震が発生していることを知りました。
阪神淡路大震災を身をもって体験している人間としてやはり人ごとではなく、さらにはあの原発事故と言う史上最悪の事態まで発生し、関西と東北は距離がありながらも、身も震える出来事でした。

一昨年、都市防災研究の第一人者、神戸学院大学中山久憲教授(昨年3月に定年退官)の研究室が行う被災地の定点観測に随行させていただく機会がありました。

東京オリンピックはあの震災からの復興をアピールすると言う趣旨が盛り込まれていますが、私が研究室に随行し、東北を視察した感じでは、まだまだ復興半ばであり、道のりは長いと言う印象でした。

東日本大震災で最も知られている悲劇は、あの児童の大半が亡くなった大川小学校だと思います。

研究の趣旨からは離れるのですが、もちろんのことながら大川小学校にも立ち寄り、震災の凄まじさを感じ、さらには多くの幼い御霊に対して涙を流さずにはいられませんでした。

大川小学校については、裁判も行われ、一応の決着はつきましたが、あの時恐怖で震えながら、死ななければならなかった子供たちや教職員に思いを馳せると、「安らかにお眠りください」などという言葉がとても安っぽく感じ、ただただ悲しみが心の奥底から吹き出し目からは涙が流れるばかりでした。

そこに人が住んでいる限り、これからもまちは復興の道を歩みますし、風景はどんどん変わっていくことだと思います。まさに定点観測と言う研究方法は、まちの復興についての非常に貴重な記録になります。

私たちは、災害に限らずあらゆることを歴史から学ぶ必要があります。

歴史を軽んじる人は未来を軽んじる人だと思います。

無念にも亡くなられたあまりにも多くの御霊の声なき声に耳を傾け、そして今ではなく、未来を考える生き方を今の私たちがすることが特にこの不安定な世情において求められていることではないでしょうか。