桜と美と死

明日ありと思ふ心のあだ桜
夜半に嵐の吹かぬものかは
親鸞上人

つい3日前まで満開の桜で、参道からは姫路城の望むことが出来、コロナ禍においても「花見日和」でした。

しかし、一昨日の雨で、桜もかなり散り、道路には桜の花びらの絨毯ができています。

桜の花びらがひらひらと舞い落ちる様は、日本人の美意識をくすぐりますが、「花が散ること」や「葉が落ちる」は「死」と結び付けられて考えることも多くあります。

このことは洋の東西を問わないようで、O.ヘンリーの著作「最後の一葉」にも一枚の葉が命を暗示させるものとして出てきます。

中でも特に桜は「花は桜木、人は武士」と言われるように桜自体が「美」と「死」に関連付けて考えるられることもあります。「武士道は死ぬことと見つけたり」と『葉隠』にも書かれていますし、梶井基次郎は「桜の樹の下には屍体 ( したい ) が埋まっている」と小説に書いていたりします。

「美」の作家の代表といえば、三島由紀夫や川端康成が思い浮かびますが、彼らの小説の中でも「死」は大きなテーマとして登場します。実際に三島は、割腹自殺という「死」によって「美」を完結させたといえるかもしれません。

もちろんのことながら決して死ぬこと良いことではなく、私とはも避けたいものですし、普通は忌み嫌われるものです。

しかしお釈迦様が説かれた人間の根本的な4つの苦しみの「生老病死」の一つである「死」は誰もが避けられないことであり、かつ必ずしも誰もが「平均寿命」まで生きるとは限らないのも事実です。

冒頭に挙げた、親鸞上人の言葉は桜をたとえとして、私たち人間の現実を説かれています。

明日死ぬと思って生きなさい。
永遠に生きると思って学びなさい
マハトマ・ガンジー

「どうせ死ぬのになぜ生きるのか?」

という疑問も沸き立つのですが、私はこう思います。

「どうせ死ぬのだから今日一日を精一杯生きる」

その疑問には人それぞれに答えがあって良いと思います。

せっかくいただいた命。日々の中でを健康に気をつけ、また日々が充実したものでありたいものです。