一番であると言う事

先日、岐阜県高山市まで研修で参りました行ってきました。このことについてはまた後日、改めて述べたいと思いますが、ちょうど北アルプスに初冠雪があった日だったらしく、遠方からですが北アルプスの神々しい山々を拝むことができました。

北アルプスといえは、御嶽山で数年前、ちょうど紅葉のシーズンに噴火があり、多くの方々が犠牲になるという痛ましい出来事があった事を思い出します。

またどこがどこの山かわからなかったのですが、北アルプスの山々を見ながら、新田次郎の『劒岳〈点の記〉』という小説を思い出しました。

劒岳初登頂と言われえる、明治陸軍参謀本部陸地測量部の柴崎芳太郎らが、困難を克服しながら「測量」と言う目的のために測量技師や案内人たちと協力をしながら剱岳に登頂すると言う物語です。
しかし、「人を寄せ付けない未踏峰」と言われていた劒岳の頂上で見つけたものは、なんと古代の仏器でした。つまり、彼らの登頂以前に古代のうちにすでに登頂した名もない宗教者がいたということになります。

私は、それでもやはり私は柴崎芳太郎たちこそが初登頂者と考えますし、彼らは一番の目的である測量技師という任務を無事に遂行するだけでなく、彼らの努力と成果は、後の日本の地図製作に大きな影響力を残す、間違いなく歴史に名を遺す偉業であると考えます。


「なぜ1番じゃないといけないのですか?」

という、言葉が流行(?)した時期がありました。

私は、自然科学の発展のためには1番になることこそ意義あることで2番では全く意味がないと思っております。科学の発展ではなくとも、人間の心の成長のためや、あるいは会社といった組織でも、


「1番を目指す」

ことに最も意味があると思っています。ただし、結果1番じゃなくとも、ましてドンケツであろうが、それはあくまで一時的な結果であり、成果は違うところで現れたりするのもだと思います。

ところで「個性の時代」と言われて久しくなりました。SMAPの「世界に一つだけの花」も永遠の名曲だと思います。確かに個性は大切ですし、競争社会の中で例えば数学で学校で一番にならないとしても、人柄の良さでは一番であるならば、とてもすばらしいと思います。ただ、「一番じゃなくてもいいんだ。常識に囚われなくてもいいんだ。個性が一番大切なんだ」と言うのは大変な誤りだと思います。個性と言うものは、「100年に1人出るかどうかの天才」でもない限りは、常人はしっかりと基礎を学び、世の中の常識を身に付け、あるいは自分の苦手な分野でも一番に近づくために努力をしてから十分につけてから、個性を発揮しても遅くないのではないでしょうか。

「常識常識といっても、江戸時代の常識が現代で通用しないように、今の常識だって100年後には通用するとは限らないでしょ」

という反論を受けたことがあります。その通りだと思いますが、ではお聞きしたい。

「あなたの常識は100年後には通用するのですか?現在のあなたの常識外れの生き方は、今生きている周りの人に迷惑になっていませんか?」


「未だ有らず、一味美膳をなし、片音妙曲を調ぶ者は」
弘法大師『性霊集』

普通の人はたとえ素晴らしい個性があっても、それだけでは魅力的な人にはなれません。知らないことは素直に学び、苦手なものでも努力を払い、そしてその中から自分の個性を見つけてそして伸ばしていくことが大切ですし、そうしてこそ人間の深みがでるのではないかと思います。

哀れなるかな、長眠の子

“Fair is foul, Foul is fair”
「きれいは汚い、汚いはきれい」
『マクベス』シェークスピア著、福田恒存翻訳

久しぶりに小説を読みました。小説といっても正確には戯曲です。

映画としてジャスティン・カーゼル監督、マイケル・フェスベンダー主演として公開されたことも記憶に新しいところです。
マクベスは「シェイクスピア四大悲劇」と言われる作品の中の一つになります。

2015年版の映画は以前にも見ていたので、1971年のロマン・ポランスキー監督の作品をDVDで探し昨夜視聴しました。

文字として読んでも映画として見ても、心理描写の迫力には圧倒されます。

主人公マクベスは自らの野望のため主君を殺し、そして徐々に暴君と転落していくのですが、終始その自ら犯した罪への罪悪感に苛まれ、精神をすり減らしていきます。

実際にこのような暴君が存在すれば、民としてたまったもんでは無いのですが、私には物語の中のマクベスは決して悪人には思えないのです。

私自身の話になりますが、自分自身が嘘をつく事は許すことができません。これは決して私自身が高潔な人物であると言うことではなく、いやしくも仏に仕える身であるから、と言うわけでもなく、単に私が本当の「小心者」であるからです。正確には「ウソをつくことができません」です。

なぜならば嘘をつけばいずれバレます。バレないために、嘘を隠すためにまた嘘をつかなければなりません。またその嘘を隠すためにさらに嘘をつかなければなりません。そう考えるだけで、とても恐ろしく嘘がつけないのです。「嘘も方便」と言いますが、方便としての嘘も私にはひょっとしたら無理です。

本来高潔な人物であったマクベスの最初の罪は、妻にそそのかされて、主君であるダンカン王を暗殺する事から始まります。そして自らの罪をさらに隠すため、自らの地位を維持するために、親友であるバンクォーを暗殺し、さらに家臣や裏切り者の家族を殺し、罪を重ねていきます。そして罪を重ねるごとに、マクベスは精神をすり減らしていくのです。そして最後には破滅が待ち構えています。

現代の社会の中で、罪を犯しても罪の意識すら感じない人が増えているのではないかと思います。話すことが嘘だらけで何が本当かわからない政治家や、自分の職務命令のために部下が自殺しても平気である高級官僚であるとか、あるいは犯罪を犯す場面を撮影し、アクセスを稼ごうとするユーチューバーと呼ばれる人々。社会が徐々におかしくなっているのではないかと思います。

彼らはおそらく、罪を犯すことに対する恐れや罪を犯してしまった後の後悔と言う感情が欠如しているのではないでしょうか。そうであるならば、彼らは彼らでとてもかわいそうな人たちです。

哀れなるかな、哀れなるかな、長眠の子、苦しいかな、痛ましいかな、酔狂の人。痛狂は酔わざるを笑い、酷睡は覚者を嘲(あざわら)う。かって医王の薬を訪らわずんば、いずれのときにか大日の光を見ん。

弘法大師『般若心経秘鍵』より

高校時代、「名誉欲のために主君を殺し自らが王となり、そして暴君となって最後には殺される」と言うあらすじだけを聞いて、

「なんでこれが悲劇なんだよ」

と思っていましたが、今読み返せば、マクベスの破滅へと向かっていく心のさまはに悲劇の中の悲劇です。またエピローグにおいて、彼自身は死ぬことによって救われたと読み取ることもできるかもしれません。